移民1世紀 第3部・新2世の闇と未来
第4回 ・ 残された道は「日系比人」
ミンダナオ島ダバオ市で二〇〇三年八月下旬、日本人のフィリピン移民百周年を記念するイベントがあった。戦前・戦中に比へ渡った日本人移民の子にあたる二世が苦難の戦後を振り返り、ゴードン観光長官や高野駐比日本大使が日比両国の将来を語った記念式典。日系三、四世らの担ぐみこしが市内を練り歩いた記念パレード・・。
華やかな行事の続く同市の一角で、元エンターテイナー、ローズさん=仮名、南スリガオ州出身=(39)は、大雨で浸水した家の後片付けに追われていた。傍らには、札幌市出身の日本人男性(44)との間に生まれた子供たち三人。戦前・戦中生まれの日系二世と同様、日本人を父親に持つ「二世」ではあるが、百年に一度の記念行事とは無縁な時の流れの中で、母と共に家財道具の山と格闘していた。
男性は一九九二年に比へ移り住み、六年間を同市でローズさんらと過ごした。「まず職ありき」で比へ向かい、結果的に比人女性と一緒になった戦前移民とは違い、結婚を目的にした移住だった。定職はなし。最後は家庭内暴力で警察に突き出され、九八年一月ごろ一人で日本へ帰っていった。敗戦直後、妻子を残して日本へ強制送還された戦前移民たちと同様、後ろ髪を引かれる思いだったに違いない。ただ、生活基盤のない家庭など成り立つはずもなく、破たんは当然の帰着点だった。
男性の消息は、長女が十歳になった今も不明だ。養育費の仕送りはない。ローズさんに定職はなく、男性がいたころに買いそろえた大型オーブンで焼いたケーキ類を売って生活をつないできた。一年ほど前には、より安い借家を求めて現在の家へ移った。床面積三十六平方メートルの平屋に居間と寝室二つ。家賃は月三千ペソ。背に腹は代えられず洪水頻発地帯にあることを知りながら引っ越した。
今回の大雨で、頼みのオーブンが水につかって壊れた。蓄えを使い切る前に、日本出稼ぎで中断した薬剤師の勉強を再開しようとも思う。しかし、「二女はまだ四歳で、家に残したまま外出はできない」と言う。
さしあたっての問題は長女ジュリちゃんと長男ケンジ君(8)の学費だ。日本人男性と連絡を取ろうと、在比日本大使館ダバオ駐在官事務所のドアをたたいたこともあるが、「『新日系人』を助ける余裕がない。マニラの大使館へ行ってほしい」と言われた。日本大使館へ駆け込もうにも首都圏までの旅費がなかった。
子供の将来を考える時、ローズさんの胸中では日本への「愛」と「憎」が絡み合う。日本で働いたころの思い出。暴力を振るわれながらも六年を共に過ごした日本人男性との生活と三人の子供たち。
「日本の男の武器はお世辞とお金。(太平洋戦争に次ぐ)二回目の侵略だわ」。そこまで言いながらも「日本人の血を受け継いだ子供たちには日本へ行ってほしい。行けばさまざまなチャンスが開ける」と思っている。漠然とした期待感の向こうには、知人らから伝え聞いた日系人の日本出稼ぎがある。ローズさん自身も「日系人なら日本へ行ける」と固く信じている。
しかし、子供たちは遠からず厳しい現実に直面することだろう。ローズさんと日本人男性は正式に結婚しておらず、子供たち三人は比国籍。戸籍上の親子関係を証明できないため、戦前・戦中生まれの日系二世やその子(三世)、孫(四世)らに発給されている「日本人の配偶者等」を対象にした定住ビザは出ない。現状では「日系比人」として生きていくしか選択肢はない。(つづく)
(2003.9.11)